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2014年12月29日月曜日

バレエと文楽②


私はかつて、こんなことを書いている。
バレエ音楽はあくまで、入り乱れる肉体の饗宴に花をそえる存在である。その舞踊を垂涎(すいぜん)ものの美味佳肴(びみかこう)にたとえるなら、その音楽は匂いやかなる薫香である。バレエ音楽の鑑賞において、この点を過ってはならない。
噛みくだいて言うと、つまりこういうことである。
音楽は、バレエにおける装飾のようなものである。踊りをほっぺたが落ちるような美味しい料理にたとえるなら、音楽のほうは料理のかぐわしい香りのようなものである。(バレエそのものではなく)バレエ音楽を鑑賞するときには、この点を間違ってはいけないのだ。
ただ音楽だけを聴いても、バレエ音楽の真価はわからない。バレエのための音楽として作られたからには、バレエそのものを知らずして鑑賞することはできないのだ――そういうことを言いたかったのである。
 さて文楽の場合は、なにが「料理」で、なにが「香り」であろうか?そもそも同じことが言えるだろうか?読者のみなさんも、ちょっと考えてみてほしい。ヒントは、「目を閉じると・・・」。


これは新春公演のポスター。
義経千本桜と冥途の飛脚、行きたい・・・
前回、文楽とバレエでは登場人物がなにも喋らない、という共通点について指摘しておいた。文楽ではそのセリフを太夫が代弁することで、現前する人形の物語に鮮やかな色合いを施しているのに対し、バレエではセリフがない。一体セリフのない劇は劇と言えるのであろうか。まるで音声のない映画を見ているのと一緒で、物語を作り上げる劇としては、いささか説得力に欠けるのではないだろうか――そういった疑問は当然浮かんでくるべきであろうし、実際、素人には舞台上で何が起きているのかわからなくても当然である。しかしバレエは少なくとも、「無音劇」ではない。ここで音楽が重要な意味をもってくるのである。
 文楽では、通(つう)と呼ばれるような観客になると、「耳で聴く」ために足しげく劇場へ通うのだという。耳で聴く、とはつまり、素浄瑠璃(すじょうるり)を聴くのと同じである。太夫と三味線の絶妙な駆け引きに耳をそばだてることができて、ようやく文楽は楽しめるようになってくるのだという。となると、文楽は耳だけでも十分に楽しむことができる、ということになるが、バレエではそういうわけにはいかない。目を閉じてしまったら、もう微塵もバレエの鑑賞とは言えなくなってしまう。舞台を、そしてダンサーを見なければ、ただの演奏会も同然である。香りを楽しんだら当然、次にはその味を確かめずして料理を楽しんだとは言えなくなるのである。
 耳で聴く文楽と、目で見るバレエとでは、なにが本当に共通しているのであろうか。――思うにそれは、文楽における聴かれないもの、バレエにおける見られないもの、この両者の絶対的原典性ではなかろうか。
 文楽で聴かれるもの、すなわち義太夫は、演者の良し悪しによって変わりうるものであるから、批評の対象になる。また、バレエで見られるもの、すなわちダンサーも、日によって出来不出来が変わろうし、彼らの踊りが批評の主眼に置かれるのはごく自然なことである(もっとも、振付や演出についての解釈で字数を稼ぐことは可能である。ただ、その場限りの再現不可能な芸術を記述する、という批評を意図しているのであれば、あまり利口とは言えない)。舞台ごとの批評が成り立つのは、そこに変わりうるものがあるからであって、逆にいつも変わらないようなものは、その場ごとの批評の対象にはなりえない。それは、文楽における台本である。バレエにおける音楽(スコア)である。基本的にこれらは(同じ作者の名のもとにおいて)公演ごとに変わるものではないし、またそれなくしては劇自体が成り立たない。その絶対的な立場、演者によってたやすく忽(ゆるが)せにされない両者こそが、料理の香りなのである。
 料理家や陶芸家として知られた北大路魯山人によると、やはり料理の良し悪しはすべて素材の質にかかっているそうである。見た目や香りがいかに美しかろうとも、素材の悪いものは不味い。そもそも良い見た目や香りは、低質の材料からは生まれえない、ということを氏は盛んに強調している。これは、文楽やバレエにおいても同じである。太夫や三味線がぎこちなければ、浄瑠璃の「いき」は滲みえない。ダンサーの悪いバレエは見るにたえない。これらが料理における素材なのであろう。逆に言えば、名ダンサーはどんな振付も傑作に仕立てあげてしまうし(ヌレエフ版作品を踊るマニュエル・ルグリらがそうであった)、名太夫の手にかかれば、新たな作品の型が生まれるのである(義太夫に限った話ではない。落語界においては、明治の巨匠・三遊亭園朝がそうであろう)。
 この、いわば触れることの禁じられた台本や音楽は、観客の無意識に働いて鑑賞の良し悪しを決定づけることがある。ことにバレエについていえば、オーケストレーションの上手いスコアほど名演を生みやすいものである(バレエでは同名作品でもオーケストレーションの違うスコアが少なからず存在する)。そういったことを念頭に置いていれば、批評すべきものと鑑賞すべきものとの根本的な違いも、峻別できるようになるであろう。日本ではおそらく、この二者を混同している批評家が多いのではなかろうか。歌舞伎批評における三木竹二のような存在が、斯道でも待たれてひさしい。
(鷲見雄馬)


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