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2014年12月11日木曜日

バレエと文楽①



 三村君と文楽を観に行った。そこで得た素人なりの感想を自分の側に引きつけて書こうとしているのが、この「バレエと文楽」である。どうしてバレエと文楽を比べようなどとするのか。バレエと比べるのが役者の演じる歌舞伎ならともかく、人形芝居たる文楽はお門違いなのではないか、という声も少なからず聞かれるかと思う。そもそも私には日本古典芸能全般がお門違いなのではあるが、文楽を視野に入れることによって、ようやくバレエと歌舞伎との比較に意味を見出せることもあろうし、そもそも歌舞伎と浄瑠璃の関係にあたるものがバレエにはない、という点にも、バレエや文楽、歌舞伎を素人が鑑賞する上での重要なヒントが隠されていると思う(強いて言うならオペラであるが、オペラを引き合いに出せばますます何を論じたいのかがわからなくなる。今ここでは、ひとまずバレエをやっている自分自身とその観客に供するようなことがあれば、と考えている次第であるから、その比較検討に対する興味は否定しないものの、深追いはやめておく)。そういったヒントに通じうる問題を二、三、列挙して、後日あらためて論じたい。
 一、舞台上の登場人物が喋らない、というのは、当たり前のようで非常に困った問題である。というのも、それを別の人物が代弁しているのか、それともセリフ以外の何らかの方法で表現しているのか、はたまた喋ったり代弁させたりする必要すらないのか、によって、その舞台の性質はきわめて異なってくるからである。文楽の場合、これは太夫の語りに代弁されているので、歌舞伎と比較したとしても、同じ文学的地平において正当に評価されうることが知られる。一方、バレエでは文字もセリフもない。これに準ずるものとして、マイムやオーケストラの音楽が挙げられる程度である。そうすると、次のような疑問が生じてもおかしくはない。「バレエは何を伝えようとしているのか?」
 一、また上記の質問に付随して、このような見方もできる。どちらも同じ「感動」を目指しているのかもしれないが、そこに至るまでの筋道が異なるだけの話である。どちらも同じ芸術であることには変わりない、と。実際、このような考えに基づかないと、比較研究もただの項目列挙に終わろうし、双方の芸術的側面に以て寄するものがなくなってしまうであろう。しかしながら、その同じ芸術を同じ地平において十分に論じているような文章があまり見られないのは、舞台芸術である、という事実以外に共通点があまりにも少なすぎるからなのではないか、という反論がまたしても浮上せざるをえず、かくて比較検討の方法論はきわめて危ういものであることが一目瞭然となる。
 一、上記のような疑問は無数に噴出する。しかしこれではどこまで考えつめても水かけ論に終わろうし、批評家面をした無責任なもの書きを増やすばかりであろう。そこで、本当に意味のある議論はどのような方法論に則るべきなのであろうか、というのが究極の疑問となる。ここに至って初めて、素人の疑問が演技者本人にとっても意味のある議論となってくる。すなわち、どのような批評ならば自己満足のダメ出しにならないで済むか、同じ人間が陰で見えぬ苦労もして舞台に上がっているのを見る、とはどういうことなんだ、といった疑問によって、初めて観客と演技者の対話が生まれるのである。この対話こそが、現代における雑多なアート芸術一般の鑑賞のカギである、と念を押しておきたい。そんな対話がなぜ必要なんだ、と言うような理屈屋のために付言すると、人とコミュニケーションをとろうともせずに、相手のことがわかるのであろうか。これに対し、イヤそもそもわかる必要があるのか、とまで言ってしまえば泥沼で、じゃあわかるってなんだ、わからないで何ができる、という話になる。わかる努力を怠れば、それは自分の周りから他人を排除することになり、ひいては自分自身を孤立させるだけであって、これではまるで、悔やんでも悔やみきれない人生の大損である。そのようなことでは上手くいく人生も上手くいきようがないのだから、時には自ら進んで芸術家の視点を取り入れていくのが賢明である。だから例えば、芸術にお金なんて使う必要があるのか、などと抜かしているうちは、せいぜい芸術がなにかわかっていないのである。
 こういった考え方を変えることが、バレエと文楽について論じる前段階における、日本人の課題である。
(鷲見雄馬)





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