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2014年12月14日日曜日

歌舞伎と文樂


 先日歌舞伎の『伽羅先代萩』を觀、ついで文樂の『先代萩』と『紙子仕立兩面鑑』を觀た。筋に多少の違ひはあるが、實のところ素人目には一見似たもののやうに映る。しかし違ふことは違ふのであつて、第一歌舞伎は役者が演ずるが文樂はさうではない。役者が演ずれば觀客がその容姿を氣にしたとしても理であり、物語ではなく役者を觀にゆくことさへ考へられる。一方文樂の觀客は人形を見にゆくのではなからう。
 また歌舞伎において役者が曲藝の如き動きをすれば觀客は興奮する。ところが人形が如何に派手な動きをしても、人形なのだからそのやうなことは出来て當然であり、觀客は寧ろそのやうな動きがどのやうな感情を表さんとしてゐるのか忖度することになる。文樂の『先代萩』御殿の段において我が子の死を悲しむ政岡は冷静に考へてみるとかなり激しい動きをしてをり、歌舞伎と對照的でさへある。『紙子仕立兩面鑑』大文字屋の段の最後では權八が吊し上げられ、梁に摑まつて踠くのを見て觀客は大笑するが、もし歌舞伎で同じことをやれば、勿論笑ひは起こるであらうが同時に輕業に壓倒され、これを驚嘆し稱讃するであらう。
 ここで視座を改め、役者・人形遣ひの立場に立つならば、歌舞伎・文樂が全く別物であることは言ふも愚かなことである。具體的に役者の意識はかうで人形遣ひの意識はかう、前者の太夫と後者の太夫とでは心の在り様がかう違ふと指摘することは出来ないが、しかし同じであつたら却つて一大事である。
 藝術を論ずる際、評論家――即ち觀察者(傍觀者)の立場に身をおけば自然と觀客側からの論になる。しかしそれが〈當事者〉としての論になるとは限らない。木戸錢を拂へば觀客にはなれるが、作者や演者として立つのは容易なことではない。もしこの文章のやうな感想文ではなく、曲がりなりにも論説と呼べるやうな藝術論を書くには何らかの〈當事者意識〉を持つことが求められるが、そのための第一歩としては、作者・演者の思考を見抜き、それと同じやうな思考を自ら實驗すること――つまり roll playing が有効である。普段わたくしはそれを〈言葉〉による〈テクスト〉に對して行つてゐるのである。
 鷲見君の脅迫を受け、1863年蜂起の如き抵抗も空しくこの文章を書く仕儀となつた。
(三村一貴)


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