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1970年1月20日火曜日

第3号短評(米田・鷲見)

米田浩基Hiroki Yoneda

東京大学理学部物理学科

 恥を覚悟の上でこの広告の正直な感想を述べると、広告に書かれている黒い蒸溜釜が魔法使いの帽子に似ているなというのが一番強く抱いた印象です。釜の先の方は蒸溜の際に出てくるガスを外に出すような煙突かと思いますが、この微妙な曲がり具合がなんだか魔法使いの帽子みたいだと感じたわけです。すると、下の方の膨らみは魔法使いの頭ということになりますが、ぱっと見た感じ、つるつるとしているので、この魔法使いの頭毛はあまりないのでしょうか。小学生の頃だったら、夢中になってこの広告に落書きをして魔法使いの顔でも書いていたかもしれません。「ウイスキーを作ることだけに特化した魔法使いウイスキー・ポッター」などと名前を付けていたのでしょう。この蒸溜釜を使えば、美味しいウイスキー(僕はあまりウイスキーを好みませんが)が出来てしまうわけですから、原理さえ知らなければ魔法みたいなものだなあとも思ってしまいます。こんな妄想をしながら、タイトルが右から読むようになっていて古いなとか読めない旧字を見てこんな漢字知らないぞとかそんな気持ちばかり抱いていましたが、黒インク一色刷りのこの広告は、現代の情報過多な広告と違い、受け手の想像力や判断力を十分に認めてくれているようにも感じられました。
(529 字)


鷲見雄馬Yuma Sumi

グルジア国立バレエ団

 1枚の写真を見て広告を論じようとするのは尚早である。私は、広告というものを知っている、あるいはそう思っているがゆえに、広告を論じようとする自分自身の軽率を危ぶむものである。
 かつては私もこう書き始めた――“ 論説とはなにか? ”――いまでは、広告とはなにか?という疑問の疾走にほろ酔う自画像が、自分自身を失笑させる。それでもなお眼を開かずにものを考えることができていたとしたら、それは世界の解釈、すなわち世界の無視にほかならなかったのである。
 いまこの1枚の写真をまえに、私は写真というものの生々しい肢体をみる。言葉を相い容れずにこの世界を切り取る撮影行為は、じつに人間的な見る欲求そのものの精確な模倣であるが、一方の撮影者の肉体に毛羽立つべき慾念を撮影という名において相殺してしまうため、その胎児たる写真そのものはすでにして曖昧な猥雑感でくまどられている。
 そこに映し出された異様な生き物――それが写真そのものの純然たる不気味さを肩代わりしている――すなわちこの企画のいう広告は、現代のわれわれがお歯黒に対して見出すような、どこか不意の・澱んだ媚態をもって眼前に横たわっている。この時代錯誤の感、時代の文脈からとりのこされた風貌がわれわれに要求する居心地の悪さは、膿のような疑念を脳裡にそっと吐き出すのである――伝統芸能や古典書籍の類いに同じものを覚えなかったのだとすれば、われわれはどの世界を見ていたのか?
(600 字)



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